巨大地震の新史料発見(近江研)
必威体育附属近江学研究所が調査した近江の古地図に、寛文2年(1662)5月1日に発生した巨大歴史地震として知られる「寛文近江?若狭地震」の凄まじい被害の様子が記されていることがわかりました。
この地図は近江古地図の収集?研究家として知られる松井善和(本学職員)の最新の所蔵品で、地図上に細かく説明文が貼付けられ、また付け足し部分や修正個所が複数あるなど、珍しい特徴を持っています。研究所では、昨年6月から日本近世史が専門で本研究所客員研究員水本邦彦氏(長浜バイオ大学教授)に指導?協力を依頼し、この地図の調査を開始しました。
誰が、何のために、いつ頃この地図を製作したのかを調べるため、地図上に書かれた文字を読むところから始めました。そして現高島市の朽木村を紹介する箇所に地震の記事が書かれていることを発見しました。 この記事は、推定マグニチュード7.6という日本歴史上内陸地震として最大級といえる巨大地震である「寛文近江?若狭地震」の新史料であることに間違いありません。
研究所は、東日本大震災が発生した2年目の3月11日を前に、今回の史料の発見が、過去に起った大災害の記録を呼び起こし、近江?若狭?京都の防災意識につながれば、この新史料に大きな意味があると思い発表公開しました。
この地図の詳細な調査報告につきましては、3月末に附属近江学研究所が発行する紀要第2号(紀要発刊後、近江学研究所Webサイトにて閲覧可能です)に加藤賢治(近江学研究所研究員)が投稿することになっています。
記事に書かれていた内容
現代語訳
一、この谷ノ内の市場というところに家が一五〇軒ほどあった。兵部殿(元朽木の領主朽木宣綱)が城にいたが、五月一日の地震で家は一つ残らず潰れ、兵部殿の他、約七十名が死亡した。
一、この辺りの榎村というところに家が約五十軒あり、うしろの山が崩れ人馬ともに一人も助からなかった。朝早く、山へ行った二人だけが生き残っていた。その他、浜の商人が木材を買いに二人で来ていた。その者が泊まっていた宿の前に、長さ十四五間の杭太が転がっており、その一部が三尺程見えていたので、そこを掘り返した。七日目に掘り出し、二人は助かった。その場所は今、淵になっている。
この件に関するお問い合わせ
必威体育附属近江学研究所
担当研究員 加藤賢治
TEL:077—574—2118
mail:omigaku@seian.ac.jp
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※「寛文近江?若狭地震」に関する参考資料 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1662 寛文近江?若狭地震(平成17年3月)